천성경훈독실

天聖経を読む

第1編 神様 › 第1章 神様の存在と属性 › 第2節 根源であり本体であられる神様

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1

人間が絶対者によって創造され、絶対者の愛を実践するように造られたとすれば、人間の創造に動機と目的があったことは明白です。その動機と目的を明らかにしようとすれば、絶対者がどのようなお方かという問題、すなわち正しい神観がまず立てられなければなりません。正しい神観が立てられることによって、そのお方の創造の動機と目的が明らかにされるのであり、したがって、平和のために絶対愛を実践しなければならない理由も明白になるのです。

第一原因者であられる神様

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この世の中には、男性と女性の二種類の人間が暮らしています。彼らは、自ら立場を変えることはできません。皆さんは、自らが願ってそのように生まれたのではありません。自分が考えもせず、願いもしなかったのに、そして、原因はもちろん、結果や過程も知らないのに、そのように生まれたのです。人間がいくら偉大だとしても、原因的な存在ではなく、結果的な存在であることを否定できません。したがって、第一原因的な存在がなければなりません。第一原因的な存在を神様と呼んでも、何かほかの名で呼んでもかまわないのですが、その原因的な存在がなければなりません。

3

人間は、あくまでも第一存在ではなく、第二存在です。第二存在、すなわち結果的存在があるためには、原因的存在である第一存在がなければなりません。第一存在と第二存在は、離れようとしても離れることはできません。その第一存在と第二存在は、原因と一体となることのできる結果を望みながら、その関係が結ばれます。神様が人類の中心となって人間の原因的な存在になったとすれば、結果的存在である人間には、その理想を実践できる過程が必要です。それが、私たちが成長して生きる生活過程であり、また長い時間で見れば歴史過程です。

4

あらゆるものを見ると、対になっています。鉱物世界にも、プラスイオンとマイナスイオンがあり、与えたり受けたりしながら運動しています。花にも、雄しべと雌しべがあります。動物世界にも、雄と雌がいます。近頃は、細菌にも、雄と雌があるという話をしているのです。見えない世界にまで雄と雌がいるというのですから、見える世界はどうでしょうか。雄と雌が自分の意志によって生まれたのでしょうか、他者の意志によって生まれたのでしょうか。他者の意志によって生まれたのです。ですから、私たちは、いくら優秀だといっても、結果的存在であって、第一原因的存在ではありません。私たちは対象的存在にすぎません。

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人間は第一原因から始まりました。第一原因とは何でしょうか。その名前は何でもよいのです。絶対者なので、そのお方が考える理想は、絶対的理想です。人間は、あくまでも第一存在ではなく、結果的な第二存在です。「私」にとって第一存在は、父母です。父母の第一存在は、祖父母です。祖父母からさかのぼれば、第一存在は、最初の先祖になります。人間の最初の先祖を中心として、神様がいるとすれば、神様にまでさかのぼるのです。

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神様は、私たちの心の動機になるお方です。人間の第一源泉になるお方です。私たちの理想の起源になるお方です。この起源を除外しては結果が現れません。ですから、神様を除外しては世の中が成り立ちません。父母を失った孤児のような境遇にあるのが、この地上の人類です。しかし、その孤児の前に、失ってしまった父母を取り戻すようになれば、その歓喜の声がどれほど大きいでしょうか。世の中を征服して億万の大金を手にした名将の勝利も、この喜びとは比較にならないのです。心が重要です。いくら勝利を称賛できる立場にあるとしても、父母の前に行かなければ真の子女として立つことができません。

本体であられる神様

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歴史は個人から出発して世界にまで広がっていますが、どこで終結するのでしょうか。最高善の本体である絶対者と、永遠不変の縁を結ぶ時まで統くでしょう。最高の善は永遠不変なのです。それ以上の発展がありません。今日、この世の中を見つめるとき、生活感情の異なる民族が、だんだんと生活感情を共にしています。また、理念を異にしていた数多くの宗教が、理念を共にする方向に進んでいます。根本は一つです。この絶対的な一つの価値に向かって、歴史は総進撃しています。ですから、現実に現れた価値は、相対的な価値にしかならないというのです。

8

神様は、情、知、意の本体です。そのような神様は、どのような目的意識をもっていらっしゃるのでしょうか。創造してから目的意識をもったのではなく、創造の前から目的意識をもって創造されたに違いありません。もし、そのようなお方でなければ、歴史を収拾することはできません。人間の認識では感じることのできない力が歴史の背後にあるからです。もし神様にそのような目的意識がないとすれば、目的とする世界に、歴史と全人類を導くことはできません。それゆえ神様は、人間が堕落したとしても、堕落していない人間に賦与すべき世界的な目的意識を痛切に感じていらっしゃるのです。

9

神様は、愛のために人間を創造されました。愛は独りで成立するものではありません。したがって、神様が絶対に必要とされるただ一つのものは、その愛を施すことのできる対象、すなわち神様が愛することのできる対象です。必ず相対がいてこそ愛することができます。愛と心情の本体であられる神様は、その愛が動機となって宇宙を創造されたのであり、特にこの期間に、創世記第一章二十七節のみ言どおり、神様に似た実体対象として人間を創造されたのです。

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愛の究極者は神様です。この愛よりも深いものが心情です。神様は心情の根源者です。ですから、この心情を中心として、み言も、行動も、理念も成立します。そのいかなるものも、単独では成り立ちません。いつも神様から来る縦的な心情が伴わなければならないのです。神様の歴史的心情、時代的心情、未来的心情をもたなければなりません。

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神様は真理の本体であり、善の本体であり、愛の本体であり、生命の本体だといいますが、それはどういうことでしょうか。みな同じ話です。真理が成立するには、愛と生命がなければなりません。真の真理を語ることのできる人になるには、自らの生命の中に真理に対する意欲と欲望がなければなりません。生命の本体、愛の本体、真理の本体である神様は、人間の父であると同時に母です。核心は父母です。このように見れば、神様は単純で、分かりやすいお方です。

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真の父母が生まれた国も、永遠に変わりません。永遠に変わらない国の国民と一つになることは、どれほど貴いでしょうか。あらゆる結果的な存在は、永遠に変わらない本体と一つになりたいと思うのです。本体とより近いところと関係を結ぶことが、心情世界の最高の願いです。

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神様は、私たちが見いだすべき希望の本体であられると同時に、全体の価値を代表する栄光の本体でいらっしゃいます。ですから、神様の全体に対する主管性を復帰するためには、皆さん一個体で神様を所有できなければなりません。神様を迎え得る人にならなければなりません。その神様は、億兆蒼生を造られた神様であり、万物に対する全体主管の行使をなさるために復帰の苦労をしてこられた神様です。したがって、皆さんが神様を所有したとすれば、その神様は皆さんの神様なので、そのお方が永遠であれば皆さんも永遠であり、そのお方が被造世界に対して主管性をもつようになれば、皆さん自体も実体をまとった神様の立場に立って、万物を主管できるようになります。そのような皆さん自体を探し出すことができないとすれば、神様を所有したとはいえないでしょう。

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今までもってきたあらゆる罪悪の要素を打破してしまうことができ、今まで属していた死亡の権勢から解脱できる信仰の基準をもたなければなりません。そうするためには、皆さんの疑問を解き得る道を探さなければなりません。生命に向かって進んでいける道を探さなければならないのです。もし、このような道が人間の世にないならば、神様は訪ねてこられません。自分の誤りを悟って悔い改められるように良心を刺激させてくれる実存体が神様ならば、その神様が願う最大の希望と生命と人倫の基準を、皆さんが必ず立てなければなりません。そうすることのできる一日、歴史的な終末時代が、いつかは来なければなりません。それでは、このような宇宙的な運命の道を前にして、皆さんはどの程度考えてみましたか。皆さんは、宇宙と、この社会と世界、さらには皆さん自身に対しても疑いを抱き得る環境に置かれています。このような、あらゆる問題を解明してくれる中心存在が神様です。また、人間が心配しているあらゆることを御存じのお方も、神様ただお一人であり、それを解決してくださるお方も、たったお一人の絶対的な存在であられる神様です。

天宙の大主宰であられる神様

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天宙の中心存在は神様です。その神様は、宇宙的な父母、全体の父母です。このすべての被造世界において、目的としたことを間違いなく経綸(けいりん) していかれるお方が、創造主であられます。その創造主から、父母の心情圏を受け継いで、この地上に生まれるべき人類の先祖が、地の父母です。このように見るとき、天宙を中心として私たちは、三大父母を発見するようになります。永遠であられる天の父母がいると同時に、地の父母がいて、家庭の父母がいます。天の父母と地の父母と家庭の父母、この父母が何を中心として公的な内容の生活をするのでしょうか。物質を中心としたお金でもなく、知識でもなく、権力でもありません。ただ愛を中心として生活するのです。愛を根本としてあらゆるものを治める主体が、神様であり、地の真の父母であり、家庭の父母です。

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神様は、人類の父母でもあるお方であり、人類の王の中の王でもあるお方であり、あらゆるものの中心でもあるお方です。世界的な孝子、世界的な忠臣を従えるべきお方が神様です。また、世界的に代表される聖人を従えるべきお方が神様です。このようになれば、神様は最高になるのです。それが別々になるのではなく、そのお一人が父母にもなることができ、国王にもなることができます。すべてを総合した中心存在が神様です。孝の中でも最高の孝であり、忠の中でも最高の忠であり、聖の中でも最高の聖を代表できる位置を占有した者だけが神様に侍ることができるとすれば、神様は、この三つを一度に成し遂げた人、孝子にもなり、忠臣にもなり、聖人の中の聖人にもなり得る人を願うはずです。

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宇宙の中心存在であり、創造主であるそのお方は、中心にいながら、保護の責任を感じて保護してくださいます。保護しながら育成してくださいます。正しく育ててくださるのです。それだけではなく、良いことと悪いことのすべてに責任を負います。逃げる道理はありません。ですから、天地の大主宰であられる神様は、すべてのことに責任を負い、保護、育成なさるのです。その方を中心として、すべての存在が一つになろうとします。

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神様は、福を無限にもっていらっしゃる、福の中心存在であられます。世の中で何を与えても、買うことのできない福をもたれたお方です。そのお方には、ないものがありません。皆さんの愛する妻より、もっと貴いものをもっているお方です。皆さんの父より、もっと貴いものをもっています。「私の愛する息子、娘よ」と言って泣いたりわめいたりしていた、その子女よりも貴いものをもっているお方です。ですから、この地上の人生で最高に勝利したという人、この世の中のどこから見ても最高に成功したという人は、神様を占有した人です。

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神様は、天地の大主宰であられます。その方は、最高の理想をもっていらっしゃるので、目的の基準にもなり、動機の基準にもなります。ですから、私たちが存在するようになった動機も神様であり、目的も神様です。それでは、その動機と目的を、どこから探すのでしょうか。その動機は神様のみ旨を中心とした家庭であり、その家庭をして世界的な目的を達成させるのです。

20

神様は絶対的であり全知全能であられるお方なので、そのお方には限界や有限的なものは存在しません。あらゆるものを超越していらっしゃいます。ですから、ある事情の限界圏内に縛られて、それを打開できない立場にいらっしゃるお方ではありません。そのようなお方が今まで求めてこられた願いがあるとすれば、その願いは、そのお方自身のための願いではありません。子女である人間を復帰したいという願いをもってこられました。その願いは、神様御自身で決着をつけるものではありません。人間から解決されて神様に戻るようになっています。

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自分が起源ではありません。自分の生命は、父母や社会や民族、国家を通じて生まれたのではなく、それを超越した一つの起源、すなわち絶対者である神様から始まったのです。絶対的な立場にあるすべてを、超越した動機と結びつけなければならないのです。時代的な因縁や環境的な因縁、あるいは社会的な与件に結びつけてはいけません。すべてを超越する原因に結びつけ、すべてを超越する目的に結びつけてこそ、飛躍し、超越して脱出することができます。すべてを超越する動機に、「私」の命を結びつけなければなりません。私の命は、私から始まったものではないからです。絶対者であられる神様から出発しました。自らをそのような動機に結びつけるようになれば、死んだとしても、すべてを超越する過程で神様のみ旨のために死ぬようになるのです。環境に左右されるみ旨ではありません。因縁に基づいた世界のためのみ旨でもありません。すべてを超越する動機と、すべてを超越する関係を通して、すべてを超越する結論に向かって進む過程にあるのがみ旨です。言い換えれば、すべてを超越する動機は神様であり、すべてを超越する過程はみ旨であり、すべてを超越する目的は世界のために進むのです。

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神様は縦的な父であり、縦的な主体であり、人間は横的な主体です。縦横が一つになってこそ組織体が完成します。立体的な組織体は、縦横が一つになり、前後が一つにならなければなりません。縦的なものとは父子の関係です。横的なもの、東西の関係は夫婦の関係であり、前後の関係は兄弟の関係です。このように、一つの家庭に、愛の理想を中心とする一つの球形を形成しようとすることが神様の創造理想です。それでは、神様はどこにいらっしゃるのでしょうか。中央にいらっしゃいます。父の代表として、夫の代表として、母の代表として、妻の代表として、息子、娘の代表として、兄姉の代表として、弟妹の代表として立つことができる、中心存在としていらっしゃるためのものが、神様の創造理想です。

23

神様は、公的な目的を中心として忠誠を誓って立ち上がる者たちの前には、いつも主体的な立場で向き合ってくださる主体者です。「私」が涙を流して身もだえすれば、神様もそれ以上に涙を流して身もだえする主体者です。公的な愛の心に燃えていくとき、神様は愛の中心であり主体者なので、愛に刺激された心にいつも相対し、またそこに対する刺激を与えて、その目的を成し遂げる原動力を補給してくれる主体者です。愛を中心としてその目的を成就させるためには、同労者が必要なのにもかかわらず、世の中にはそのような同労者がいないのですが、神様が同労者になり得るならば、どれほど幸せでしょうか。その神様は、父母に優り、兄弟に優り、どのような師にも優り、自分を愛するどのような人にも優るというのです。

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私たちの主体は神様です。ですから、神様と共に喜び、神様と共に歌い、神様と共に踊らなければなりません。そうなれば、どれほどよいでしょうか。ですから、私たちの目的も神様です。私たちの人生の道は、何を求めていく道でしょうか。神様を求めていく道です。その神様は、現実的な神様です。

25

神様は個人の主人であり、夫婦の主人であり、家庭の主人であり、国の主人であり、世界の主人であり、天宙の主人です。私たちは、神様の愛をもって、神様の中心までも占領する主人の役割を果たそうというのです。相対基準を造成し、相対と一体化して平和世界を成し遂げようというのです。キリスト教では、「創造主は神聖で、人間は卑しい」と言いますが、それはよく知らないので、そのように言うのです。先生が教えるべきことが、これです。神様が創造した第一の目的は、神様も形状が必要だったということです。

26

神様は最高の公的な主体です。したがって、人間に対する最高の教えは何でしょうか。世界のために公的なことをするよりも、神様のために自分の生命を懸けて精誠を尽くす人になりなさいということです。そのような人が最高です。ですから、聖書に「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである」(マタイ二二・三七)とあるのです。それでは、神様はどのようなお方でしょうか。万宇宙の主人です。ですから、神様を愛するようになれば、この世界は神様を愛する人のものになるのです。

愛、生命、理想の主体であられる神様

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神様は生命の主体です。生命が維持される所には、必ずその背後に愛が残っています。皆さんは父母の愛から生まれました。また、その背後には愛と生命とその目的性をもったお方がいます。そのようなお方は、「私」のような主体ではなく、全体の根のような主体です。皆さんが一つの細胞のような相対ならば、そのお方はこの全体の根のような、宇宙存在の核のような主体です。生命力の全体を代表し得る核であり、愛の力があれば愛で全体を代表する核であり、ある目的があるとすればその目的の原因的な一つの核になるお方です。

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太陽が昇ってくれば、すべての木の芽は、太陽に従っていくように作用します。芽が従っていく太陽の光とは何でしょうか。生命の元素です。生命の元素は、人間にとっては愛です。神様は愛の太陽です。気づいてみれば、神様は愛の太陽なのです。ですから、すべての愛と生命の要素をもって発展し、無限の世界に同化できる人格を具備するためには、愛の理想に接ぎ木をして和合しなければなりません。そうしなければ、その前に相対圏を得ることはできません。愛の相対圏を得ることができないというのです。ですから、人間は高貴なのです。神様の愛の相対者として造ったのです。

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神様は、愛の主体であり、生命の主体であり、理想の主体です。ですから、人間は、愛の対象であり、生命の対象であり、理想の対象だという結論を下すことができます。神様が絶対的ならば、自分も絶対的な立場を願わなければなりません。神様が不変ならば、自分も不変でなければなりません。神様が唯一ならば、自分も唯一でなければなりません。神様が永遠ならば、自分も永遠でなければなりません。このような観点で、人間の永生は不可避であり、それは結果的な帰一点とならざるを得ません。いくら神様に愛があるとしても、自分に愛がなく、いくら神様に生命があるとしても、自分に生命がなく、いくら神様に理想があるとしても、自分に理想がなければ、すべてのことがむなしいのです。

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私たちの生命の主体は神様です。神様は生命の主体であり、愛の主体なので、神様自体に生命力があれば、その生命力も好きになり、愛も好きにならなければなりません。堕落することによってそのような世界にならなかったので、私たちは再び取り戻していかなければなりません。そのような観点から、私たちが生きている世の中は、神様が願う世の中ではなく、私たちが願う世の中でもありません。

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生命をもった存在物は、きょうも動くと同時に、またきょう以降、永遠の未来にも動くのですが、その生命の主体が神様です。また、生命をもったものは、どのような存在であっても、神様と永遠に一緒にいたいと思い、神様を中心として生活したいと思い、生死までも共にしたいと思う本性をもっています。そのような理念圏内から抜け出そうとしても抜け出すことのできない世界において、主体的な立場にいらっしゃるお方が神様です。さらには、造った万物に対して自分の情熱をすべて傾けて、愛と情的な関係をもって治めるお方が神様です。

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私たちは今まで、観念的に神様を呼び求めてきました。宗教的な主体としてのみ神様を呼び求めてきたのです。神様は生命の主体であると同時に生活の主体であり、生活の主体であると同時に理念の主体です。しかし、いくらその理念の主体が広くて大きいとしても、実質的にそれは生活感情で分析され、体験されなければなりません。もし生活で体験されるその理念の価値を、存在しているどのようなものとも取り替えることができない、と誇り得る立場に立った人がいるとすれば、その人は、神様が探し求めている人に間違いありません。

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幸福の土台であり、種の中でも生命の種であるお方が神様です。ですから、生命は偉大です。神様は、生命の種であると同時に、身にまとう理想です。神様の幸福の土台を通して、理想にまで連結させるものは何でしょうか。それが真の愛です。神様は生命の起源であり、愛の起源です。また男性の起源にもなり、女性の起源にもなります。母の起源にもなり、父の起源にもなります。兄、姉、兄弟たちの起源にもなるのです。

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神様は、自分の生命の根本を尊重するお方です。み言を尊重するお方です。そして、行動を尊重し、愛を尊重するお方です。神様は、自分の存在の価値を認め、み言を語ればみ言どおりになり、み言どおりになったものを愛するお方です。語れば行動として結実し、そののちには、それを放っておくのではなく、愛するのです。ですから、語るのは行動するためのものであり、行動して実体が出てくれば、それは愛で発展させるためのものです。